日本100名城

◆日本100名城のスタンプは、歴史博物館正面玄関(屋外)に常設設置(*24時間 365日いつでも可能)
◆さくら祭り期間中の有料期間内のみ限定
*高遠城址公園 高遠閣(公園管理事務所)でも対応可
*押印希望者は係員にお声掛けください
*桜の咲きはじめ(開花宣言の翌日)~散り終わりまで
*午前8時~午後5時
日本100名城とは・・・
財団法人日本城郭協会が、平成18年2月13日に定めた日本の名城100城。
その選定対象は、
①優れた文化財・史跡、②著名な歴史の舞台、③時代・地域の代表
と規定され、各都道府県1城以上5城以内として全国から100カ所が選定されました。
平成19年6月からは100名城を探訪するスタンプラリーも開始されています。
高遠城は、No.30で登録されていて、スタンプは伊那市立高遠町歴史博物館にあります。
長野県では他に松代城(長野市)上田城(上田市)小諸城(小諸市)松本城(松本市)が選定されています。
高遠城(国指定史跡)の歴史
  高遠城は三峰川と藤沢川に挟まれた河岸段丘の突端に造られた平山城です。本丸を中心として取り囲むように二ノ丸、南曲輪、三ノ丸などの曲輪を配しており、環郭式と呼ばれる縄張りです。
高遠は古くから諏訪氏の権力圏にあり、南北朝の頃より諏訪氏の支族である高遠氏が一円を治めていましたが、諏訪から伊那谷へ抜ける交通の要塞であり、駿河や遠江に進出するための重要な地点であったことから、戦国時代の天文年間(1522~1555)に武田信玄がこの地を押さえました。その後信玄は高遠城の拡張を家臣に命じ、天文16年(1547年)に「鍬立て」を行っています。この時指揮をとったのが山本勘助であると伝えられていますが、後にも大規模な改修がされているため、信玄の頃の城の姿は分かっていません。しかし、曲輪の周囲にめぐらされた深い空堀や土塁からは、地形を巧みに利用した戦闘的な城の姿をうかがい知ることができます。武田氏による高遠支配は35年間続きましたが、高遠城は南信州の拠点として重要視されたため、城主には諏訪(武田)勝頼や仁科五郎盛信など、信玄の近親者が就いています。中でも天正10年(1582年)、伊那谷に攻め入った織田軍と壮絶な戦いを繰り広げた仁科五郎盛信の姿は、後々まで語り継がれています。
江戸時代になると高遠城は高遠藩(石高33,000石)の政庁として、保科氏、鳥居氏、内藤氏と約270年間にわたり上伊那の政治の中心となりました。戦国期武田氏時代の高遠城は、大手が月蔵山の方向、東側にありましたが、江戸時代前期の鳥居氏時代までには西側に変更されたといわれています。主要な街道沿いに発達した西高遠の門前町を城下町として取り込むように、近世城下町の建設と城郭の大改修が行われたのです。現在の高遠城跡はこの時に整備された曲輪配置をそのまま残しています。
江戸時代初頭に高遠藩主であった保科正之は、2代将軍徳川秀忠のご落胤として知られています。正之は高遠から最上を経て会津へ移封となり、藩祖として会津松平家の基礎を築きました。また元禄4年(1691年)に鳥居氏に代わって藩主についた内藤氏は、明治時代にいたるまで8代にわたり高遠藩主を務め、高遠藩で最も長い治世を誇りました。
明治維新後、高遠城は廃城となり本丸御殿や門、橋などの城内の建物はすべて取り壊され、石材や立木、土地にいたるまであらゆるものが民間に払い下げられました。そして、明治8年(1875年)に城跡の公園化が決定すると地域の人々が集う「高遠公園」として新たな道を歩み始めました。昭和48年(1973年)には国の史跡に指定され、平成18年(2006年)には日本百名城の一つにも選ばれており、現在は都市公園「高遠城址公園」として多くの人々に親しまれています。
*高遠城の魅力をご紹介 [伊那市公式HP]

 

 

高遠城に関するパンフレット
高遠城パンフ(三ツ折) 高遠城パンフ(三ツ折)-2

 

公開日2020/11/23
伊那市観光協会